Chara『やさしい気持ち』~♪ 手を、繋ごう。。

やさしい気持ち

やさしい気持ち

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”無邪気な心で私を笑顔へ導いて欲しいの”

 

人は不思議なことに他人の表情や素顔を伺ったりする。

不思議という言い方は変かもしれないが、気付いたら他人の表情を”自分”は伺っている。

 

ある時、ある瞬間、誰かの表情を気にしている。

気にしているその時に、相手が”笑顔”や喜んでいる時、”ふわっ”と不思議な感情が生まれることがある。

 

いちいちそんな感情を分析するのは堅苦しいかもしれない。けれど、知ると役に立つことってないかなーって思うことがある。

 

相手の”笑顔”。その受け取った”笑顔”によって、不思議と自分も嬉しくなることはきっと、共感や同調なのかなーって気がする。

 

まるでそれは生理的な、本能的な現象。

 

しかし、”笑顔”にもいろいろ種類があるような気がする。

作り笑い、不敵な笑み、

怒りによって生まれる皮肉を込めた笑み、

嘲けりのこもった笑い。

純粋に喜びという一心の籠った無邪気な笑顔や、

それを超越して大切だとかいろいろな感情が混ざった涙を含めた笑顔。

(いろいろ斜め上な笑顔を混ぜてすみません。)

 

それらの中で、”無邪気な笑顔”というのは強いと思う。

”無邪気”、とは、何も余計な思想とかが混ざっていない純粋で無垢で汚れとかのない新鮮なものを指すのかなと筆者は感じている。

 

そして、そういう”無邪気”が人を”笑顔”にするんじゃないかなと思う。

”無邪気な笑顔”に。

 

一体その心境というのは何か。やっぱり、共感や同調。そういう気持ち(笑顔になること)が気持ちの良い事だと本能的に反応して表情を同じようにゆがめるのかもしれない。

 

それは、笑顔に導いてくれる。そういう事なのかな…?

 

その笑顔に導いてくれる人というのは一体どんな人間か、どんな思想の生き物なのか。

きっと様々で、とらえる”自分”の感性によって”笑顔”になるかならないかパターンがあると思う。

大雑把に言うと、喜、怒、哀、楽のこの四種類のそれぞれ別々に主体にした性格の”相手”がいたとして、

 

”喜”を主体にした相手でもその人の魅力を感じて安心を感じる人(自分)、

”怒”を主体にした相手でもその人の魅力を感じて安心を感じる人(自分)、

”哀”を主体にした相手でもその人の魅力を感じて安心を感じる人(自分)、

”楽”を主体にした相手でもその人の魅力を感じて安心を感じる人(自分)、

 

それぞれに対して嫌いを抱く人はいると思うが、好意、安心を抱く人もいるんだろうなと思う。

 

それはきっと、その人の魅力やどう説明すればいいのか難しいがフェロモン含め恩だったり価値観だったり、共感だったりが優先して合って、

 

どんなに明るくいろんな人に好かれて愛着を持たれやすい人間であっても、

どんなに野蛮で乱暴で自分に気を向けてくれない人間であっても、

どんなに悲観的で弱虫で頼りない人間であっても、

どんなにのんきで自分勝手に自由にどこか行ってしまいそうな人間であっても、

 

きっとそのそれぞれのタイプの人間の”好きな”ところ、魅力を見つけたらきっと、その人の”笑顔”だけじゃなく、好きな表情を見たら、自分も笑顔に導かれるのかもしれない。

 

”そう いい加減な男があなたの理想だとしても

この愛が自由をこわすって?”

”でも勝手だってしからないで”

 

…………。

 

”手をつなごう”

 

人類、人間、個人。

人はそれぞれ別々の場所で生まれ、育って、別々の成長の仕方し、別々の性格を持っている。

遺伝や、育て方、人間関係…様々なパターンで様々な場所で性格が作られていくと思う。

その成長過程、社会に出たりしてでも出会う人間同士の意見の食い違いとかがある。

そういう食い違う事とかの小さなこと、大きなこと。きっとあると思う。

でも、一つ思うのは、誰かが困っているっていう事があったりすると思う。

そういう時、何かしてあげるという風にすぐに考えられる人って、どのくらいいるのだろうか…?

 

もしかしたら、その場に介入したとき、自分に負担が来るかもしれない、と思って何もせず見過ごして通り過ぎる人とかもいるのかもしれない。

もしかしたら、他人だから自分には関係ないとただの景色としてスルーする人とかもいるのかもしれない。

忙しい人とかはいる。だから正直そういう人が現れることってしょうがない事なのかなって思ったりもする。

しかし、もしも、その困っている人とかを見かけたとき、周囲に誰もいない、気付けるのが自分だけだった時、スルーすることって正しいのかな…。

人は自分が体験したことがない事とかに関して行動するのは勇気が必要だったりすると思う。

それは、ただの自分の勇気。恥ずかしいとか、逆に余計なお世話かも、とか考えてしまう人もいるかもしれない。

だけど、そんなことを考えている間に、”困っている人の困っている”はきっと進行している。

 

そういう時、やっぱり人は、困っている人を助けるべきなんじゃないかって、思う。

 

人は”自分”という立場を基準に考えがちで、他人の立場”当人”の気持ちとかはないがしろに、というか考えられなかったりする。

もしも自分がその人と同じ困っている状況だったら、という事を想像できないんだろうなあと。

 

そういう時、本来、どうするべきなのか。

それはきっと、助けるっていう事なのかなって、思う。

 

”手をつなごう”

 

困っているを転んでいると言い換えるのであれば、

転んでいる人を助ける時、きっと助けるとしたら誰でも、物理的な”手”をさしだすと思う。

 

そして、転んでいるを困っているに言い直すとしたら、気持ち的に”手”を貸してあげる、と思う。手伝う、助ける。どちらにしても、物理的な行為ではある。

 

手を貸したりする。そうすることによって、手を借りた人はきっと、お節介とか思う人も中にももしかしたらいるかもしれない。だけど、少なくとも、誰でも安心する事は絶対あるんじゃないかなって思う。

 

その行動によって、助けられるわけで、迷惑だと思うのだとしたら、きっと勘違いだろう。

そこは相手の反応とかに対して思うのは、”良かった”という安心で良いと思う。

助けようとして、それに対して相手から反発があった場合に対して、自分が怒ったりしたら、それはただの恩着せがましいになってしまう。

恩は、さりげなくで良い。

助けるは、当然で、だけど、難しいから、しようと思う事がとても大事だと思う。

その行動をしようと思った事を大事にして、人を助けることを、大事にしてほしい。

ただ、

 

”手をつなごう”

 

物理的にだけではなく、”思い”っていう手を、つなごう。

 

そうして二つの意味で”助けられる人”がきっと生まれると思う。

 

そこに赤の他人への優しさ、身近な家族愛、友情、恋人への愛情。

そういう関係をつなぐのは、人の誰もが心の中にこっそりと持っている、”手”で、相手の中にもある”手”なんじゃないかなって、そんなことを思う。

 

きっと、誰もが持っている。不器用で使い慣れていないから見失っている人もいるけど、気付いたら使っているかもしれない。

 

きっと、誰かをその”手”のやさしい気持ちで、助けていることが、人生にあるかもしれない。

 

その”手”を上手に使えるように、みんな成長をしてきっと、生きている。

 

だから、

 

”手をつなごう”

 

それが、

 

”愛でも、なんでも”

 

……。

 

Junior Sweet

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  • 発売日: 2014/04/01
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(今起こっている、世界の問題が落ち着き、安心できる日が一刻も早く訪れる日を祈りながら。I wish.)